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森島朋三氏・三宅由佳莉氏・木村皓一氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

 

こんにちは

クローバーです^^

 

今回は森島朋三氏・三宅由佳莉氏・前野隆司氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集です^^

 

【目次】

 

 

 

森島朋三氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・私はあまり勉強熱心ではなかったのですが、「森島君は勉強すれば絶対に伸びるよ!」と先生が励まし続けてくださったことで次第に成績が上がっていきました。

この体験から「教育は大事なんだ」という思いを強く抱くようになりました。

 

・大学のあり方が日本全体の教育に大きな影響を与えていると知り、教師とは違った立場で教育に携わりたいという思いが芽生え、大学職員として立命館に就職しました。

 

・どんなに行き詰まっても諦めずに、それこそ二十四時間、考えに考え続けていると、かつて読んだ本の知識や見聞きした優れた実践が結びつき、アイディアがふと閃き、壁を突破するヒントが見つかるものです。

 

・どんな提案であっても、自分や所属する組織の私益ではなく、高い志を持ち、公益のために行動するということです。

私益のためにやっていると少しでも思われてしまえば、周囲の協力は得られません。

 

・心から公益のためを思って行動していれば、必ず助けてくれる人が現れるということを何度も経験してきました。

 

・いつしか心に留めるようになった言葉があります。

それは徳川家康が遺した「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」という言葉です。

私の父もまた、事あるごとに「人生はよいことばかりではない。だから若い時の苦労は買ってでもしなさい」と教えてくれました。

 

 

 

三宅由佳莉氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・やっと演奏会に参加できても、私に与えられたのは一曲だけだったこともあります。

その悔しい経験があったから、僅か五分の一曲、一瞬一瞬を大事に、常に全力で思いを込めて歌うようになりました。

 

・中途半端なのが一番嫌なので、いつも全力で一所懸命。

いまはありがたいことに歌う機会が多くなりましたが、どんな曲でも手を抜けない。

よく隊長から「もう少し力を抜け」と指導されています(笑)。

 

・東日本大震災があった後には、慰問演奏にも行かせていただきましたが、その時にも歌が持つ力を再認識しました。

正直なところ、未曾有の大惨事があった場所で、自分が歌ってもいいのか、傷つけてしまわないかとものすごく不安だったんですけど、皆さん本当に温かく迎え入れてくださり、「勇気をもらった」など感謝の言葉をたくさんいただいたんです。

 

・十年間、前例がない中、無我夢中で歩み続けて思うのは、やっぱり自分を信じて行動するしかないということ。

先が見えず、不安でも行動する。迷いながらでも行動する。できないかもしれないけど行動する。

 

・「あの人はあんなにうまいのに、なんで自分は下手なんだろう」と人のことを羨ましく思ったり、悔しさやもどかしさなどマイナス感情が出てくるのは、自分の努力が足りないから。弱い自分の心に負けているから他のことが気になってしまうんです。

そうした感情に気づいた時は、練習して上達するしかないよね、と自分に言い聞かせています。

 

・自衛隊初の歌姫ということもあり、私ばかりスポットライトを浴びてしまって・・・。実力が伴っていない自分のことが中身のない人間に感じられ、他の隊員にも申し訳なく思っていました。

 

・歌を聴いた方から感謝のお手紙が届いたり、自衛官の仲間からも勇気と希望をもらえたと言っていただけたことで、私の任務は自衛官の一人として歌うことなんだと気づかされたんです。

 

・私たち音楽隊は多くの方と直に接する機会が多い分、様々な場で(中略)自衛隊に対する感謝の言葉を掛けていただきます。

でも、救援活動などは私が行ったのではなく、同じ制服を着た他の隊員がやったことなんです。

そうした感謝の声を各隊員に伝えていくことも私の役割なのかなと考えています。

 

・皆が一所懸命私を指導してくれ、それに必死で報いようとした結果、「自衛隊の歌姫」という職種を確立できました。

 

・私は「顔晴る(がんばる)」という言葉をよく使うんですけど、頑張りながらも程よく力を抜いて、笑顔で一所懸命、それを顔晴ると表現しています。

頑張るではなく顔晴ることで仲間に安心感を与えられ、歌を聴いてくださった方にも力や感動をお届けできるんです。

 

 

 

木村皓一氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・一人で始めたこの事業(ミキハウス)を、ここまで導くことができた原点を語る上で、三歳の時に右脚に患った小児麻痺のことを語らないわけにはいきません。

 

・(小児麻痺の辛いリハビリや不自由な脚を理由に面倒なことから逃げてばかりいた)自分を変えるきっかけを得たのは、小学校高学年になり、異性を意識するようになってからでした。

心を寄せていた女の子から、自分が道場の対象にしか見られていないことに気づき、このままではいけないと痛感したのです。

 

・中学校に入学した私は(三歳の時に患った小児麻痺で力が入らなかった)さらに足を鍛えるための新聞配達のアルバイトに挑戦したいと考えました。

しかし、足を引きずって歩く私はどの販売所からも相手にしてもらえません。

父に相談すると、やるからには絶対に周りに迷惑をかけないこと、途中で辞めないことを約束させられ、自宅から一番近い販売所で少ない軒数から配達させてもらうように話をつけてくれました。

 

・人間、やればできる。(小児麻痺で)不自由な右足を(中学生の時の新聞配達のアルバイトを通じて)克服して掴んだ自信は、その後の人生を支えるかけがえのない力となったのです。

 

・アルバイトでお世話になった証券会社にそのまま就職しました。そこで様々な優良企業をつぶさに観察するうちに、長く繁栄を続けている企業には、安易に安売りに走らず、よいものをその価格に見合った価格で売ろうとしていることが多いことを学びました。

 

・なぜ断られるのか。その夜、宿泊した博多のホテルで自問を繰り返す中、早く成果を上げたいがための強引な営業姿勢をまず反省しました。

そして、自分がどういうコンセプトでものをつくろうとしているのかを理解してもらい、相手に売りたいと思ってもらえるかが大切だと気づいたのです。

 

・デニム地を使った商品を企画した時には、選択で色落ちするすることを十分注意書きしたにも拘らず、クレームが殺到しました。

やむなく一度洗った上で販売することにしましたが、不思議な閃きがあり、面白半分に石ころを一緒にいれて洗濯機を回したところ、それまでにない斬新な色調に仕上がったのです。当初こそお取引先の反応は散々でしたが、先端ファッションを扱うお店から人気が火がつきました。

いまやミキハウスの定番となったストーンウォッシュは、そうした誕生したのです。

 

・ニューヨークに進出したのは、国内での挫折がきっかけでした。

ブランド力を高めるため、東京の有力な百貨店へ商品を持ち込んでトータルコーディネートのよさをアピールしたところ、(中略)当社がまだ創業間もなく、会社としての体制が確立していないのを知った途端に態度を豹変。破談となったのです。

私はその百貨店を見返したい一心で、世界一の百貨店であるニューヨークのサックスとの取引を実現させました。

 

・少子化が進む日本のお客様だけを相手にしては、成長は見込めない。これからは視野を広げ、十億の人口を擁する中国をはじめ、アジア全域を見据えて商売していかなくてはならない。よいものをつくってブランド力を高め、メイド・イン・ジャパンで世界に打って出る。いずれ従業員の半数は外国人が占めるようになるはずだ。

私は創業した当初からこうした話を繰り返してきました。

 

・五年前にはベビー服及びその売り場の強化に着手しました。お客様から出産準備の際に、「あの会社は絶対に必要だ、あの会社がなくなっては困る」と言われ、大切にされる会社にしたいという願いを込めて決断したことですが、この頃ではアジアの多くのお客様が、出産を機に百貨店のミキハウスのコーナーへ足を運んでくださるようになりました。

 

・こういう会社にしたいという明確な理想を抱いて努力を重ねてゆけば、必ずその通りの会社になるのです。

 

・ぜひともビジョンを持って歩んでほしいということです。自分は将来こうしたいという夢や目標がなければ、自分が歩んでいくべき道も定まりません。

そして、どうせビジョンを描くならば、できるだけ高い理想を掲げていただきたい。

それが私の願いです。