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吉田悦之氏・中江彰氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集


こんにちは

クローバーです^^

 

今回は吉田悦之氏・中江彰氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集です^^

 

【目次】

 

 

 

吉田悦之氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・せっかく(本居宣長記念館に)来店いただいても、短い時間で帰ってしまわれるのをみると残念でならないのです。人生というのは出会いによって一変することもあるわけで、せっかく宣長という稀有な人物と出会うチャンスなのに、来館者が手ぶらで帰してしまってはダメだと。とにかくご来館の滞在時間を延ばしたい。見て何かを得てほしい。リニューアルの目的はその一点でした。なかなか難しいですけどね(笑)。

 

・(中江)藤樹先生の弟子が書いたものに、「只言葉にズドンという事を仰せられ候」とあります。知識ではなく、自分の言葉にズドンとくるようなものがないとダメなんだと。

 

・(本居)宣長は「物まなびの力」と言ったりしますが、学ぶことの驚き、感動、それに魅せられ、グイグイ引っ張られて進み続けたのです。やがてその喜びや驚きは周りの人にも伝わり、喜びの輪が広がっていくのでしょうね。

 

・(本居)宣長には、「力の及ばんかぎりは、産業(なりわい)をまめやかにつとめて、家をすさめずおとさざらんようはかるべきぞ。これ宣長が心也」という言葉があります。まず仕事だけはきちんとする。学問をするから、他のことはできません。というのではなく、生業をまめやかに努めて、家を永続させることが大切だと説いています。

 

・(本居)宣長には「力の及ばんかぎりは産業(なりわい)をまめやかにつとめて家をすさめずおとさざらんようにはかるべきぞ。これ宣長が心也」という言葉があります。まず仕事だけはきちんとする。学問をするから、他のことはできませんというのではなく、生業(なりわい)をまめやかに努めて、家を永続させていくことが大切だと説いています。

 

・(堀)景山は中国の古典を通じて、長いスパンでものを考え、人間の世界を細かく観察する目を鍛えた。(本居)宣長はそのよい所を継承していますね。

 

・(堀景山は)学問は売名や金儲けの手段ではなく、それで人生を豊かにするのだという態度を持ち続けたことです。そんな先生の弟子だから、(本居)宣長はいつも明るいんですよ。

 

・古人の心になって古典を読んでみなさいということです。いまの心で古典を読んではいけない。古(いにしえ)の言葉を学び、古の人の心と自分の心を重ね合わせなければ古典は理解できないといいます。

 

・『源氏物語』に登場する人は、容姿は端麗で才能はあっても立派な人とは言い難い。人の弱さ、愚かさを『源氏物語』を通じて痛切に感じた(本居)宣長は、そこを出発点に、日本人について考えていく。その思案の中でやがて『古事記』と出合うんですね。

 

・(本居)宣長は、「言(ことば)と事(わざ)と意(こころ)と、その様大抵相かないて、似たる物にて」とも記しています。行為、それを記述するものも、また心、それを伝えるのも言葉なのだ。これは宣長の学問の一つの宣言ですよ。

 

・古典との対話の基本は、まず言葉に習熟することです。言葉が自分のものになった時、やっと古典の世界は扉を開いてくれるのです。そのため(本居)宣長は文体模写まで試みます。ただあまりに熱心いやり過ぎて、紫式部が家にやってくる幻視までするのです。

 

・(本居)宣長は、「家のなり なおこたりそね みやびやの 書はよむとも 歌はよむとも」という歌を門人に与えています。課業を怠らず行うことから学問は始まる。(中略)人間として責務を果たすことから、学問も始まるのです。宣長の覚悟をこの歌に託しているんだと思います。

 

・(本居)宣長が日本の古典を研究して最終的に行き着いたところは、お陰、つまり感謝だったと思うんです。誰のお陰で、いま私たちはいるんだと。そういう気持ちが日本人の根っこにあるということを、宣長は古典を研究する中で確信していくわけです。

 

・私たちはよく「生かされている」と言いますけど、日本にはもともと絶対神という概念はなく、八百万の神といって、身の回りすべてのものに神が存在すると考えられてきました。そういう中で皆を動かしていくものは何かというと、感謝の念ではないかと。無限に続いていく「お陰」ですね。宣長もそのように考えていたようですね。

 

・「栓するところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむぞ肝要にて」という言葉は、(本居)宣長が六十九歳の時にしたためたものですが、これは自分の体験に基づくのです。そして自分が一所懸命走った後に、次の人にバトンを渡せばいいんだと。だけど自分が全速力で走らないと、次の人にバトンは渡せないということですね。

 

・古典というのはハウツー本ではないということです。ですから読んですぐに役に立つとかいうことではなしに、繰り返し読んで自分の頭で考える、自分の体で考えることが大事なのですね。

 

・古典というのは常に本当の読者を待っているものだと思うんですよ。だから私たちは古典としっかり向き合い、格闘、いや対話を繰り返すことで、長い時間軸を獲得するし、無限のヒントを得ることもできる。そうすれば、地に足のついた判断を成し得るのではないでしょうか。

 

・(本居)宣長は、昼間は医者として走り回り、帰ってからは記録の整理や来訪者の応接、講釈。ようやく皆が寝静まった頃に、『古事記伝』の執筆を開始するのです。古典を読むためには、心を鎮めることが大事です。古人との対話ですから。しかしそれは決して呑気な茶飲み話ではない。命懸けの対話です。

 

 

 

中江彰氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・(中江藤樹記念館の館長に就任してがむしゃらに勉強して)それまでの私は、来館された方にただ本に書かれていることを説明しているだけだったのですが、それでは相手の心に響かないんですね。やっぱり自分の心に響くものをお話してこそ、相手に伝わる。その発見が私に自身を与えてくれましたし、そのおかげできょうまで研究を続けることができたとも言えます。

 

・(中江)藤樹先生は中国の学問をそのまま受け入れるのではなく、自分の中で斟酌して、日本人に相応しい儒学というものをつくり上げました。原典にある難しい言葉もほとんど使わずに、一番大事なことは明徳だと。つまり人間の内には宝のような美しい心があり、それを発揮することが真の学問ですよと。

 

・(中江)藤樹先生には特定の師はなく、独学自習の人だといわれてきました。そして晩年に王陽明の『陽明全集』を入手してそれに深く傾倒し、我が国の陽明学の祖と呼ばれるようになったと。

 

・『易経』に、孔子のこういう言葉があります。「子曰く、君子の道、或いは出て、或いは処(お)り、或いは黙し、或いは語る」

君子というのは、政治の表舞台に出て主君仕え、時には表舞台に出て主君に仕え、時には野に下って処士となり、また時には黙して語らず、時には大いに語って世論を呼び起こすと。これが人としての正しい道、あるべき姿であると。

 

・「人間の万苦は明徳のくらきよりおこり、天下の兵乱も又明徳のくらきよりおこれり」

我われが人生で経験する様々な苦悩の原因は、すべて自身の明徳を曇らさているところにあると。そして世界各地で起こる戦争も、政治、経済、宗教、民族などに原因があると。そして世界各地で起こる戦争も、政治、経済、宗教、民族などに原因があるのではなく、為政者同士が明徳に曇らせているところから生じるのであるのだと。これは(中江)藤樹先生の究極の言葉ではないかと私は思いますね。

 

・(中江藤樹には)こういう和歌もあります。

「人のよきをよくほめあげて広むべし あやかることのありやせんもし」

人の美点を知ったら、それをただ胸の内にしまい込んでおくのではなく、大いに褒め、他の人にも吹聴してあげよと。そうすれば、自分もいつの間にかその美点に染まるであろうと。

 

・人の短所を吹聴すれば結局全部自分に返ってきます。やっぱりいい言葉、美しい言葉を発することの大切さも、我われは(中江)藤樹先生から学ばなければなりません。今の日本に非常に大事なことを説いていると思いますね。

 

・安岡正篤先生も古典を活学するということを盛んに説かれましたけども、古典はただの知識ではなく、実学であることを私たちは忘れてはなりませんね。