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作家の岡田幹彦氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

 

こんにちは

クローバーです^^

 

今回は作家の岡田幹彦氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集です^^

 

【目次】

 

 

 

西郷南洲遺訓より

・「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

(人を相手にしてないで天(神)を相手にせよ。そうして自分の精一杯を尽くし、うまくいかないことがあっても人のせいにせず、自分の真心が足りないと反省すべきだ)

 

・「道を行う者は天下拳で毀(そし)るも足らざるとせず、天下拳で誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也」

(道を求めて生きる者は人々がこぞって貶(けな)し悪く言おうとも、決して不満を抱いたりしない。人々がこぞって褒めたとしても。決して舞い上がったりしない。周囲の評判など気にせず、自分の信念を貫くことが大切なのだから)

 

・「天下後世までも信仰悦服せらるるものは、只是一個の真誠也」

(後世にまでずっと信じ仰がれて感動を与えることができるのは、ただ一つ、真心・誠意だけである)

 

東郷平八郎から学ぶ

・ある宴会で伊東裕亨が明治天皇に「東郷(平八郎)を交代させたほうがよいとの声が出ております」と奏上、それまでご機嫌麗しくお酒を召されていた明治天皇が「それはいかぬ」と言われ、宴会後に山本権兵衛を呼び、「東郷を絶対に交代させてはならぬ」と厳命されました。東郷はこのことに名状しがたい感銘を受け、涙を流したといいます。

 

・明治三十八年(一九六〇)年二月、東京を発つ時に東郷(平八郎)は参内します。明治天皇の「勝算はいかに」とのご下問に、東郷はひと言、「誓って敵艦隊を撃滅し、以て宸襟(しんきん・天皇の御心)をやすらんじて奉ります」と答えました。普段は寡黙で大言壮語などしない東郷がそう明言したものですから、山本権兵衛は驚き、御前を下がった後、「陛下の前であのように申し上げて、もしできなかったらどうするのです?切腹しても申し訳が立ちませんよ」と言ったそうですが、東郷の並々ならに覚悟が伝わってきます。

 

・当時世界有数の強さを誇るバルチック艦隊を打ち破ると、東郷はイギリスのネルソン提督を超える世界一の海将と讃えられるようになりました。そうなれば「自分の指揮統率能力が優れていたから勝てた」と普通は有頂天になるものでしょう。しかし、東郷は「勝利を遂げられたのは私の力ではない。ひとえに明治天皇のご威徳とご親任のおかげ」と全く偉ぶることはありませんでした。ここが素晴らしいところです。

 

・寡黙な東郷が口癖のように周囲に語っていた座右の銘があります。

「人から迂愚(うぐ)と嘲(あざけ)られようとも、愚物と笑われようとも、正直にして誠の道を踏みたがえるな」

実際、東郷は迂愚・愚物の目で見られていたにも拘らず、ひたすらに誠の道を歩み続けました。

 

 

 

小村寿太郎に学ぶ

・(司法省に入り判事を経て、外務省に移る)上司に小村(寿太郎)の才能が分からなかったのでしょう。花形の政務局や通商局ではなく、英語が堪能だったことから、一番暇な翻訳局に配属されました。ただ、そこで仕事の傍ら欧米の歴史、外交、軍事、経済など、あらゆる分野の洋書を朝から読み込み、これによって誰も敵わない見識と洞察力を身につけたのです。

 

・小村(寿太郎)に目をつけ、駐清代理公使に抜擢したのが外相・陸奥宗光でした。その頃、小村は身近な人にこう言っています。

「日本にはまだ外交はないのだ。真の外交はこれから起こってくる」

 

・相手がどんな強国であっても、小村(寿太郎)は絶対に媚びへつらうことはありませんでした。ポーツマス条約締結後、アメリカの鉄道王ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案してきたときもそうです。一度は仮締結が結ばれたものの、桂太郎や元老たちを説得して、仮協定を破棄。ハリマンの満鉄買収・乗っ取り工作を叩き潰しました。この毅然たる姿勢がなければ三国干渉の時以上に欧米からなめられていたに違いありません。

 

・小村の根本信念は、次の言葉に凝縮されています。

「もし万一にも私に取るべきものがあるとしたならば、それはただ誠の一字に尽くされると思う」

 

渋沢栄一の生き方

・明治の日本が大躍進したのは、政治家や軍人のみならず、各界に優秀な人材がいたからにほかなりません。経済界ではやはり渋沢栄一です。「日本の資本主義の父」「実業王」と称され、五百の会社を興しました。自らが社長を務めたのは国立第一銀行と王子製紙のみで、あとはすべて然るべき人に経営を任せ、財閥をつくりませんでした。

 

・(五百の会社を興しながらも財閥をつくらなかったのは)晩年、渋沢は息子たちに向けてこう述懐しています。

「私は一己の利益のため、あるいは渋沢家が栄えるために経済活動をしたのではない。日本の国のためだ。日本が世界に伍していくには政治、そして経済が立派でなければならない。だから、財閥をつくらなかったのだ」

 

・渋沢は現在の埼玉県の豪商の生まれで、幼少より儒教漢学を中心とする学問を徹底的に勉強します。それゆえ、『論語』にある忠恕(ちゅうじょ)の精神を生涯貫き、経済と道徳の一致を追求し続けました。

 

・渋沢は昭和六(一九三一)年に九十二歳で亡くなったのですが、その前年、冷害が起こり二十万人もの人が寒さと飢えに苦しんでいました。病床に臥していた渋沢のもとへ社会事業家の代表たちが面会を求め、政府に働きかけてほしいと懇願します。渋沢はすぐさま大蔵大臣と内務大臣を訪問しようと車の用意を命じました。

しかし、家族と主治医が「いま体を動かしたら危険だ」と猛反対。その時、渋沢はこう言ったのです。

「こんな老いぼれが養生しているのは、こういう時に役に立ちたいからです。もしこれでしんでも、二十万人の不幸な人たちが救われるなら本望じゃありませんか」

家族も主治医も返す言葉がありませんでした。

 

・晩年の渋沢は決まって「人間を辞職するわけにはいかない」と言い、体が動く限り、最後の最後まで公共のために尽くしたのです。まさしく神仏の如き渋沢の慈悲心であったと思わずにはいられません。

 

・私たちの先陣が最も大切にしてきたものは何か。それはひと言で表現すると、「誠」「真心」に尽きると思います。そういう人間になるために自己修養を積み重ね、数々の艱難辛苦も乗り越えてきたのではないでしょうか。

 

終わりに

最後の一節にもありますが、偉人と言われている人たちが大切にしてきたものは「誠」「真心」ということで、ドラッカーが「マネジメントの唯一の資格は真摯さ」としているのを思い出しました。

 

他にも挙げるとするなら、小村寿太郎の一節にもありましたが「勤勉さ」なども挙げられるのではないでしょうか。

 

以前に「1日15分の勉強時間を積み重ねると1年後にはすごい力がついている」と読んだ記憶があります。

 

明治の偉人のようなほどの勉強量ではなくても、1日わずかな時間でも読書や勉強に時間を使うのもいいかも知れません。

 

そんなことを思いました。

 

という感じで今回はこのあたりで失礼します。