こんにちは
クローバーです^^
今回の人間学やビジネスなどの名言・格言集は、【禅語に学ぶ】で横田南嶺氏のお話から「切」・「円融」です^^
【目次】
禅語に学ぶ:切
・次世代を担う後継者の育成は、どの世界にあっても大事なことである。我々禅門にあっても、自ら修業するのみならず、自ら体得した世界を次世代に伝えることを、大切にせよと説かれている。
・初めて依頼を受けた時には、軽い気持ちで引き受けたのだが、育成塾での鍵山秀三郎先生の講義録を拝読して身震いがした。鍵山先生は、次世代を担う達に全身全霊で講義されているのが伝わってきたからだ。少人数の若い人たちの集まりだという私の軽い気持ちは霧消した。以来私も、毎年力の限りを尽くしている。
・育成塾では、毎年テーマを定めて講義をしている。今年(2018年)は、「如何に気づきを持続させ、自己を変革できるか」というテーマを掲げた。いくらすばらしい本を読んだり、すぐれた講師の話を聞いて感動して気がついたことがあったとしても、やがてその感動も色あせ、気づきを持続できず、いつの間にか元の木阿弥にもどってしまうことが多いのではないかと思ったのである。
・幸いなことに、仏教には二千五百年来蓄積された叡智がある。さまざまな人間の苦悩や葛藤を見据えてきた歴史がある。それらの教えには、今にも通じるものがたくさんあるのだ。
・私はどんな道であろうがまず「信」が大事だと説いた。「信」といっても何も盲目的に信じればいいというものではない。仏教では信を三つにわけている。まず知的に理解すること。次に感情で理解すること、そして実践しようという意志を持つことである。分かりやすく言うと、まずなるほどと理解し、すばらしいと感動して、よしやってみようと意思を持つことなのだ。
・なるほどと理解することはまだたやすい。その感動と意思を持続させることこそが、自己を変革することに繋がる。そこが禅における修業でもある。日々の総司や姿勢を正すことなど、身近なことを実直に継続することが大切になる。
・『博山和尚参禅警語』という禅の書物には「工夫をなすに、最も要緊なるは是れ箇の切の文字なり。切の字、最も力有り。切らざるときは則ち懈怠(けたい)生ず」という言葉がある。
工夫とは修業のことと見ていいのであろう。我々が、気づきを持続させる要素なのは「切」の字だという。「切」の一字こそ最も力がある。切でない時に人は怠け心が起きてくるというのだ。
・俗に「対岸の火事」というが、自分に関係のないことのようにとらえる時は、全く「切」ではない。それに対して「尻に火がつく」というが、そうなると切迫してくる。「切」になってくる。しかし、禅においてはそれでは、まだ手ぬるいのだ。頭に火がついたと思って修業に打ち込めと教えられる。
禅語に学ぶ:円融
・(フランス・パリ講演で)まずは、自我の否定を説いた。これは、西欧の方にとっては、容易に受け入れがたいことかもしれない。しかし、「我思う、故に我有り」という自我を否定することからこそ、禅の修行は始まる。
・私達は、生まれてからこのかた、眼耳鼻舌身(げんにびぜっしん)という五つの感覚器官から様々な情報を得て蓄えている。その五つの感覚器官から得られた情報に、皆自分の色分けをして、好きだ嫌いだ、良いだ悪いだと判断を加えている。そうして、自己中心の物の見方をいつのまにか構築してしまっている。それこそが、争い、悩み、苦しみのもとになっている。
・一度その自己中心の物の見方を否定する為に、禅問答では「公案」を用いる。公案は、有名な白隠禅師が考案された「両手を打てば音がするが、片手ではどんな音がするか」などがある。これなどは、理論で考えていては全く歯が立たない。目指すのは、理論的な思考の否定なのである。
・修行の世界では、毎日毎日ひたすら「無」になる努力をする。毎月一週間は坐禅に集中してひたすら「無」になろうとする。
もう自分があるのやら無いのやら、分からなくなる。そうしてある時にふと自分が消えるというか、本来無かったのだと気がつく。そうすると決して寂しいようなものではなくて、小さな自分という思い込みがとれて、天地一杯のいのちと言うのか、天地一杯の心と言おうか、大きな世界に気づかされて、嬉しくて仕方がなくなる。
このように目覚めることのできる心を仏心という。
・仏心に目覚める為に一度分別や知識を否定する。それが禅問答だ。自我の否定である。すると何か寂しい、むなしいように思われるかもしれないが、決してそうではない。無になった者ほど強いものはない。「涼しさや裸に落としものは無し」という句があるが、何も失うものがない、これほど強いものはないであろう。
・そうすると(無になると)、外のものに振り回されることなく、自分とまわりとの関わりあい、つながりあいに気がつく。皆一つに溶けあっていることに気がつく。それこそが真の豊かさである。そこから、人に対して、まわりのものに対して、慈しみや思いやりの心があふれてくる。
そうしてお互いに慈悲の心に満たされた時に、心に花が開いたというのだ。