こんにちは
クローバーです^^
今回は薄井シンシア氏・立松彰氏の名言・格言集です^^
【目次】
薄井シンシア氏の名言・格言集
娘を生んだ時に、「この人を一人前に育てることが、私の人生最大の仕事だ」と直感したんです。もちろん葛藤もありましたが、専業主婦に「転職」したのだと思い、仕事をするように家事をしてきました。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
(PTAなどの役員になったのは)娘に「自分が恵まれていれば恵まれているほど、世の中に恩返しする義務がある」ということを伝えたかったからに他なりません。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
私は娘を育てたおかげで可能性が広がって現在の自分があると思っているので、その経験を基に私が仕事を通じて輝き、娘に勇気を与える存在になろうと。四十八歳の時に十七年間の専業主婦に終止符を打って、仕事への復帰を決意したのはそのためです。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
私は仕事をする上で特に「成長」にこだわっていて、常に成長し続けるために、居心地のよい場所からは積極的に出るように心掛けていました。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
私の場合、熟考の末、納得して決断したら、後ろは振り向かず全力投球なんです。中途半端な気持ちで決断するから後悔してしまうのだと思います。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
いまはもう娘も独り立ちしているので、たとえきょう寝て明日の朝死んでいたとしても、まったく後悔がないと言い切れるほど、一日一日を全力で生きています。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
私には娘のモデルになるという明確な目標があるので、強くなれるのだと思います。
(薄井シンシア氏・2018年7月)
【薄井シンシアさん】
フィリピンの華僑の生まれ。
東京外国語大学卒業後、日本人と結婚し日本国籍を取得後、専業主婦となり、その後、48歳の時に娘の大学進学を機に仕事を再開。
アルバイトを経て、ANAインターコンチネンタルホテル東京に入社。勤続3年で営業開発担当副支配人になる。
立松彰氏の名言・格言集
(細井)平洲は嚶鳴館で講義するだけではなく、儒教の教えで一人でも多くの人の心を豊かにしたいという思いのもと、両国橋の袂で辻講釈を行いました。
これは儒学者として大変珍しいことで、プライドと威厳を保ちたい儒学者たちは、庶民の立場に身を置いて説法する平洲の姿を冷ややかな目で見ていたに違いありません。
(立松彰氏・2018年7月)
(上杉)鷹山植物学者を集めて藩内の野草の植物で食べられるもの、食べられないものを分類した図録を作成し、領民に知らしめることもしています。天保の大飢饉の時、藩内から一人の餓死者も出さなかったのは、これらの危機管理の取り組みが功を奏したからに他なりません。
(立松彰氏・2018年7月)
(細井)平洲は藩主の心得として「国民の父母となれ」という教えを説きました。父母の役割とは我が子に食べる物、着る物を与え、安心して暮らし、教育を施すことです。
(上杉)鷹山はこの父母の立場を藩政の場で実践し、領民の信頼を得て藩の再建を進めたのです。
(立松彰氏・2018年7月)
教え(ここでは儒教)を知らないで、世の中を渡るというのは、暗がりを探り足で行くようなものである。教えを知って世間を渡るのは、提灯を灯して道を行くようなもので、安心である。
(立松彰氏・2018年7月)
儒教を教条的に説くのではなく、自ら学んだ内容を噛み砕いて教え、人々の人生をよくすることが(細井)平洲の願いでもあったのです。
(立松彰氏・2018年7月)
「学思行相まって良となす」
学んだことをよく考え、そして実行して初めて本当に学んだことになるという意味で、(上杉)鷹山自身、この言葉を(細井)平洲から常々教えられたと語っています。
(立松彰氏・2018年7月)
「先施(せんし)の心」
これは文字どおり、相手からの働きかけを待つのではなく、自分から働きかけてこそ相手の心を動かすことができるという(細井)平洲の体験に基づいた言葉です。
(立松彰氏・2018年7月)
経済という言葉は経世済民(世の中を治め、人々を苦しみから救う)という言葉が元になっていますが、(細井)平洲が目指した生き方もまた、国を豊かにし人々を幸せにすることにありました。
(立松彰氏・2018年7月)
自分を少しでも磨き高めていこうという思いがあったからこそ、(細井)平洲は多くの人たちの人生を開花させ、また自分自身も儒学者として充実した生を全うすることが出来たのでしょう。
(立松彰氏・2018年7月)
【細井平洲】
1728(享保13)年~1801(享和元年)年。
尾張の農家に生まれ、中西淡淵に学ぶ。
米沢藩主・上杉鷹山の師となり、藩校興譲館を設立。
また名古屋藩内各地で講演し、人々を教化した。
【立松彰さん】
愛知県生まれ。
東海市立平洲記念館・郷土資料館館長。