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竹中ナミ氏・高橋政代氏・野地耕一郎氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

 

こんにちは

クローバーです^^

 

今回は竹中ナミ氏・高橋政代氏・野地耕一郎氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集です^^

 

【目次】

 

 

 

竹中ナミ氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・私思うのよ。目の見えない人が自動車を発明していたら、絶対に事故の起こらない世の中になっているだろうなって。不安定な目に頼って運転する車をつくったから交通事故はなくならない。

 

・私はいろんなチャレンジド(障害を持つ人)に出逢って思うようになったんです。世の中の福祉がチャレンジドを何かやってあげなければならない、「可哀そう」な存在だと見なすところから出発しているのが、そもそもの間違いなんだなと。もっとチャレンジドができることに目を向けて、どうやったらできるようになるのか考えていこうと。

 

・私は娘を授かって初めて、人はそれぞれ生きるスピードが違うんやということを学びましたね。これは私が娘から学んだ最大のことだと思います。

 

・人は皆それぞれ、私も私でいいと開き直ったんです。「人間はこうじゃなくてはいけない」という世の中にある枠から、ある意味すごく不遜なんやけど、麻紀(24歳で授かった心身に重度の障がいを持って生まれた第二子)のおかげで解放されました。

 

・重度障がいの青年はこんなことも言いました。「コンピューターが何ですごいか分かる?コンピューターがあればアメリカと日本の間に海があったって、同じ仕事のやり取りができるんやで。そしたら、僕が会社に行けなくても自宅で仕事ができるやんか」と。これはすごいことを言うなと思って。

 

・私は自分のことを「人と人とを繋ぐメリケン粉」「翻訳マシーン」って言っているんだけど、人と人とが繋がることで違うもの、新しいものが生まれてくる。それがすごく好きなんよ。

 

・いろんな人生が生き生きして、躍動感を持って生きていける社会にしていくには皆が正しいと思うことを疑う、道を外れることを怖がってはいけない。そうでなければ、本当の意味での「気韻生動」にはならないんじゃないかと。

 

・日本はこれからチャンスなんですよね。人類は不可能に挑戦して、それを克服、解決していくことで発展してきたと思うんやけど、困難にこそ発展の種があるに決まっているんですよ。なんで皆、困難をネガティブに見るのか不思議でしょうがない。

 

 

 

高橋政代氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・眼科医の私がたまたまソーク研究所に行って、当時、最先端の脳の再生医療研究所に出逢ってしまった。いまこれを知っている眼科医は私だけなのではないか、自分がやらなければ、目の再生医療、治療は五年、十年遅れるかもしれない。そう思い込んだのが、一連の研究活動の始まりです。

 

・小学生の時に年末の紅白歌合戦を見ていると、母が「この歌手は自分で歌をつくったんか?それともただ歌っているだけか?」と、毎回聞いてきて、歌を自分でつくった歌手が出たら「この人偉いね」って言うんですよ。それで私は「新しいことをする人は偉いんだ」ということを刷り込まれた(笑)

 

・研究を始めると周りがいろんなことを助言してくださるけど、ある人は「こうしろ」と言い、別の人は逆のことを言う。それが続くうちに、「人の言うことを聞くよりも、最後は自分の思った通りにぶれずに行くことが一番や」と思うようになりました。ただし、情報を誰よりも広く多く持っている上で、です。

 

・多くの人が、この人はよい人悪い人、これは正しい正しくないとか、最初から物事を白黒をつけて、判断してしまいがちなんですが、それだと情報が全部削ぎ落とされて、大事なことを見落としてしまう可能性があるんですね。障がい者も同じで、多くの人が最初から障害がある人、障害がない人と分けてしまうから、大事なことが全部削ぎ落とされてしまう。

 

・学生には「専門領域が二つあるといいよ」といつもアドバイスしています。違うものを組み合わせると、必ず新しいものが生まれるんですよ。私の場合でも、脳の基礎研究をする研究所に専門の違う眼科医がいったから新しい発想が生まれた。

 

野地耕一郎氏の人間学やビジネスなどの名言・格言集

・私は仕事柄数多くの画家に接してきたが、制作に懸ける東山(魁夷)の厳しい姿勢は際立っていた。弟子を取らなかったのは、自分の作品世界を深めていくための修練にほとんどの時間を費やしたためである。

 

・何事も究めていこうとする東山(魁夷)の根底には、自分は絵描きである前に人間であり、よい絵を描くためにはよい人間でなければならないという思いがあった。その思いのもとに自分という人間をどこまでも高め続けた東山は、まさに日本画家の求道者であった。

 

・もともと山が好きだった東山は、学生時代、信州を訪れてはスケッチを重ねるうちに、次第に風景画に傾倒していった。生前、自分は一つひとつ積み重ねていくことが好きだと語っているが、長い歳月をかけて形成されてきた山々に、画家として、人間としての高みを目指して努力を重ねる自身の歩みを投影していたのではないだろうか。

 

・終戦後、生き残った東山は、再び各地でスケッチを始め、千葉県の鹿野山から八ヶ岳を眺めた時に再び画家としての覚醒体験をする。そこで見たものは、ただ美しいだけの風景ではなく、人間の営みや様々な思いを象徴するものであった。

その感動を描いた『残照』は昭和二十二年に日展で特選となる。「この作品から私の道が始まった」と後に述懐しているように、東山の人生は人生のどん底を経てついに画家としての開眼を果たしたのである。

 

・自分を納得させるためのこだわりを貫く画家は多いが、東山のこだわりは、人々の共感を集めたいという思いから来るものであった。自分の心を捉えた風景を、一人でも多くの人々のもとに届けたい。一人の小さな個性の枠を越え、誰にも通ずる普遍的個性に訴えかけたからこそ、東山の絵は人々の心を惹きつけて止まないのだと私は思うのである。

 

・東山は昭和四十六年、鑑真和上縁の唐招提寺から寄せられた御影堂障壁画の作成依頼を引き受ける。画家として、人間として自己を高め続けてきた東山にとり、画家業の集大成となる大事業であった。

 

・中国画の理想に、「気韻生動」という言葉がある。生気が満ち溢れているという意味だが、東山魁夷はまさにその理想を実現した画家と言えるだろう。

 

・東山は唐招提寺御影堂障壁画を描き上げた後、次のように語っている。

「私自身、絵を描くのが特にうまいほうではありませんし、上手に描こうとは思わないんです。私にとって絵を描くことが祈りであるとすれば、上手に祈るとか下手に祈るとかは問題ではないと思います。心が籠もるか籠もらないか、それが問題だと思うんです」